国際人権データベース

このデータベースでは、国際人権条約の個人通報制度に焦点をあて、それぞれの条約機関が出した先例を紹介します。

日本は、未だいずれの条約についても個人通報制度を受諾していませんが、各条約機関の判断を学ぶことは、国際人権条約を日本国内で援用し、その趣旨を広めていく上でとても重要です。また、いつか必ず日本も個人通報制度を受諾する日が来ます。その日に備え、条約の解釈や事実認定を先例から学ぶ意義は大きいと考えています。

このデータベースでは、できるだけ多くの先例を取り上げる予定ですが、各条約機関が毎年多くの判断を示している中で、紹介できる数には自ずと限界があります。そこで、まず、アジアの国々が訴えられた自由権規約の事例、女性差別撤廃条約のすべての事例、人種差別撤廃条約と拷問禁止条約の2006年以降の事例をまず取り上げ、今後人的能力の拡充により随時対象事例を広げていきたいと考えています。

国際人権データベース 概要

1.国際人権法にアプローチする

国際社会の法である国際法のなかに人権という観念が本格的に登場するようになったのは第2次世界大戦を経てのことです。「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等で奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなす」という崇高な理念のもと、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として」世界人権宣言が1948年に公布されました。国際社会の準憲法ともいうべき国連憲章に引き続いてつくり上げられた世界人権宣言こそ、今日私たちが「国際人権法」と呼んでいる法分野の中核に位置づけられる最も大切な規範文書にほかなりません。
全30か条からなる世界人権宣言は、その後、社会権規約、自由権規約を生み出し(1966年)、さらに、人種差別撤廃条約(1965年)、女性差別撤廃条約(1979年)、拷問禁止条約(1984年)、子どもの権利条約(1989年)、移住労働者権利保護条約(1990年)、障害者権利条約(2006 年)、強制失踪条約(2006年)といった主要人権条約の母体となっていきます。これらの人権条約のなかには、その内容や実現手続を「選択議定書」という追加条約を通じて拡充しているものも少なくありません。このほか、ヨーロッパ、アメリカ大陸(米州)、アフリカ大陸などにも、地域の特性を汲んで、より高いレベルの人権保障をめざす地域人権条約がつくられました。
現在、地球社会には、すべての人間の権利を等しく保障することを目的に豊かな人権基準が築き上げられています。もちろん基準設定活動は終わったわけではなく、これからも新しい人権条約や宣言が断続的につくられていくでしょう。ただ、忘れてならないのは、条約をつくるには大変な労力を要しますが、だからといって、つくってそれで終わり、というわけにはいかないということです。人権基準は実現されなければ意味がないのです。人権というのは自動的に守られるようなものではなく、放っておくと簡単に破られてしまいます。歴史の経験がそのことを繰り返し私たちに教えてくれています。
そこで、上記主要人権条約には、条約の履行を確保するための特別の仕組みが設けられることになりました。それらは、定期報告制度、国家通報制度、個人通報制度、調査制度などに分類されますが、このデータベースでは、個人通報制度に焦点をあてて紹介しようと思います。

2.個人通報制度を知る

個人通報制度とは、国際的な人権救済申立制度と言い換えてよいものです。人権条約上保障されている権利を侵害され、国内ではどうしてもその回復がはかれないと主張する者に、国境を超えた救済の回路を提供するのが個人通報制度です。この制度は、国家主権と鋭く対立する側面をもっているため、主要人権条約のすべてに備えられているわけではありませんし、また、備わっていても、各締約国に受諾する意思がなければ効力を生じないことになっています。ちなみに、個人通報制度を備えている条約は、自由権規約(選択議定書による)、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約(選択議定書による)、拷問禁止条約、移住労働者権利保護条約、障害者権利条約、強制失踪条約です。
条約ごとに設置された条約機関(たとえば、自由権規約については自由権規約委員会)に被害者が「通報」と呼ばれる救済申立を行い、所定の手続要件を満たしていると判断されたものにつき、条約違反の有無が認定されることになります。仮の権利保護をはかるため、早い段階で「暫定措置」が命じられることもあります。条約違反の有無についての判断は「見解」や「意見」(人種差別撤廃条約について)という形で示されますが、手続要件を満たしていない場合には「受理不能」(「非許容」とも訳されます)という決定により、その段階で訴えが却下され、実体審査についての判断までは行われません。「見解」などにより条約違反の判断が示されると、被害者に対して救済措置が具体的に指示されるのが一般的です。そして、その救済措置を現にとったのかどうかを確認するため、フォローアップ措置もとられるようになっています。
ヨーロッパ、米州、アフリカには人権裁判所も設けられ、司法手続を通して人権を確保する体制が整えられています。アジアにはそうした地域人権保障システムがないため、国連で採択された上記主要人権条約を利用する必要性が特に強くなっています。現時点まで、日本は、移住労働者権利保護条約と、障害者権利条約と強制失踪条約を除き、上記主要人権条約をすべて締結していますが、「司法権の独立」を毀損するという懸念などから、個人通報制度はいずれの条約についても受諾していません。

3.個人通報事例を私たちが学ぶ意味

日本より人権侵害を訴えることができないのに、なぜ私たちは個人通報制度について学ぶ必要があるのでしょう。この問いについては、次のように応答できると思います。まず第一に、条約機関が示す判断は、条約の解釈や事実認定の仕方などについて「先例」的な価値をもちます。そのため、それを、そのまま定期報告制度や国内裁判などの場で援用することができます。つまり、個人通制度の成果は、個人通報制度の枠を超えてより広く活用できるものなのです。これを活かさない手はありません。第二に、日本を相手に個人通報制度を利用できないからといって、日本の市民が個人通報制度から無縁のままであるというわけではありません。個人通報制度を受諾している別の国を相手に日本の市民が個人通報制度を利用することだってありうるのです。第三に、たとえ日本相手でなくとも、日本の法律家が代理人となってどこか別の国相手の個人通報制度にかかわることも考えられます。その際には、個人通報制度のもとでの「先例」を知っていることが不可欠です。
第四に、日本が個人通制度を受け入れる時が必ずやってきます。いわゆる先進工業国のなかで個人通制度をまったく利用できないのは、実質的に日本だけといって過言でありません。(米国については、米州人権委員会への申立てができますし、英国についてはヨーロッパ人権裁判所への申立てができます。)韓国をはじめ、アジアのなかにも個人通報を受け入れる国が増えてきています。国際社会における現在の位置づけを考えても、日本がこの制度から距離をおき続けることはあまりに不自然です。法的英知と政治的決断により個人通報制度を利用できる日はもうそこまで来ているのかもしれません。私たちは「その時」に備えておく必要があります。第五に、これまで私は日本の市民という限定的な表現を用いてきましたが、自国が個人通報制度を受け入れている国の市民については、すでにして、個人通報制度を活用する現実的可能性が広がっていることはいうまでもありません。

4.そして、このデータベースでは・・・

このデータベースでは、以上のような認識をもって個人通報制度事例を紹介していきますが、当然ながら、私たちの能力には限界がありますので、さしあたり、私たちが自ら設定した基準にもとづいて次のような事例を選別していることをお断りしておきます。第一に、アジアの国々が訴えられた自由権規約の事例、第二に、女性差別撤廃条約のすべての事例、第三に、人種差別撤廃条約と拷問禁止条約の2006年以降の事例、第四に、ヨーロッパ人権裁判所と米州人権裁判所の近年の代表的な事例、です。人的能力の拡充により随時対象事例を広げていければと考えています。
事例の紹介の仕方ですが、条約機関による判断の全文を訳すかわりに、争点や当事者の主張、委員会の判断のポイントをできるだけ正確に要約するようにしました。判断の全文を読んでみたくなった方は、国連のデータベースに直接アクセスしてみてください。私たちのこのデータベースでは、どのような事例があり、どのような判断が示されているのかを簡潔な情報・資料として提供することを目的としています。
個人通報事例において各条約機関が条約諸規定をどのように解釈しているのかを知ることは、私たちが日ごろ慣れ親しんだ日本の裁判所や行政機関の条約解釈のあり方を相対化する大切な契機にもなります。条約機関のダイナミックな判断を大いに堪能してください。

このデータベースの作成作業は、細々とではあっても、長く続けていきたいと思っています。仲間になっていただける方は大歓迎ですし、私たちの間違いを指摘していただくようなご連絡もお待ちしています。長く続けるなかで、このデータベースがさらに充実し、皆さんの密かな信頼を勝ち得ることができれば、と念願しています。

阿部浩己(ヒューマンライツ・ナウ理事長)