ヒューマンライツ・ナウ カンボジア駐在スタッフより、現地レポートが届きました。
現地レポート:2014年1月3日、カンボジアの首都プノンペン郊外ベン・スレン [PDF]
(以下内容)
2016年1月7日
カンボジアのベン・スレン地区におけるデモ隊4名射殺から2年
2014年1月3日、カンボジアの首都プノンペン郊外ベン・スレン(Veng Sreng)地区で最低賃金引き上げを要求しデモをする労働者と地元治安部隊が衝突した。この衝突で治安部隊によってデモ参加者(縫製工場労働者ら)4名が射殺され、1名は現在も行方不明(ある有力な情報筋によると死亡しているとみられている)、23名が逮捕される事態となった[1]。
この事件から2年を迎える今月3日、ベン・スレン地区で、死者4名の慰霊の式典を催すために、遺族、労働組合、NGOなどが集まることが予定されていた。カンボジアン・デイリー紙によると、式典主催者は、管轄当局に式典開催に関する事前の許可を申請しなかった。それはこの式典が、宗教上の行事としての追悼の集会に分類されていたためである[2]。しかし、式典開催日前夜に突然プノンペン市は、特定の法的根拠を示さずに、全ての者に式典に参加することを実質的に禁じる発表をした[3]。これを受けて、式典主催者の数名が翌日の朝、当局に式典を2、3時間程度開催させてくれないか交渉することを決めた(実際に当日行われたかは不明)。
式典当日、ベン・スレン通りには、500名程の武装した軍警察及び多数の武装警官、私服警官などが式典の参加者の制圧に乗り出していた。
一方の、参加者らは、3つのグループに分かれて出発した。第一のグループは、C.CAWDUなど労働組合を中心に組織され、当時の事件中心地であるカナディアン工業団地(以下、CIP)前から動き出したが、警備員及び軍警察官らによって大部分は、あっけなく解散させられた。
第2のグループは、ローカルNGOなどを含む複数団体のメンバーの集まりでCIPから約500メートル離れたバタナック工業団地(BIP)で待機していた。昨年の同じ日には、銃(AK47)を携帯した治安部隊の姿が多く見られるなど物々しい様子だったが、今回は銃を携帯した要員の姿は見られず、その点で比較的穏やかな雰囲気であった。しかし、午前8時すぎに事態が急変した。
防弾チョッキをまとい、警棒、強化プラスチック製の盾をもちヘルメットを装着した完全武装の軍警察官、警察官や警備員ら数十名が、Naly Pilorgeさん(ローカル人権NGO、Licadho代表)とOu Tepphallinさん(飲食・食品関係などで働く労働者が集う労働組合の副代表)を取り囲み始めた[4]。
その後すぐに、武装警官らは、二人と周りの参加者を盾などで押しのけ、時には、腕をつかみ強引に引っ張るなどして、数時間かけて5~6キロ離れたところに追いやった。武装警官らが二人と周りの参加者を追いやった先は、彼らの場所的管轄権が及ぶ境界地点であった。その境界地点に到達すると、武装警官らはようやくその動きを止めた。
第3のグループは、ボンコック湖(BKL)の土地権利活動家らが第2グループと同じ場所を起点として動きだし、警官らから押しのけられてバラバラになった後、偶然第2グループと一緒になった。この土地権利活動家らは、2年前の事件で逮捕された者の中に仲間がいたことから今回参加するに至ったという。
この強制的な移動をさせられている中で、ある参加者が射殺された4名の写真の印刷されたバナーを開き、歩き始めたところ、すぐに警備員がこのバナーをつかみ、引き裂こうとすると同時に強奪していった。
BIP前から追い出されてから2時間が経過した午前11時頃、3つのグループは最終的に治安部隊によって1カ所-事件の中心地からおよそ3キロ離れた地点-に追いやられた[5]。
合流した3つのグループのメンバーは、近くの地元レストランでランチをとることになった。このレストランには、一部のご遺族と行方不明の少年の母親が呆然と座っていた。地元誌の取材の中で、16歳の息子Khem Sophath君を見失った 母親のKhem Soeunさんは、時に目に涙をうかべながら、次のように語った。「私は今日、失踪した息子の魂を浄めるために来ましたが、当局はこの出来事を思い出させたくないのです。私は、彼らがこの問題を収束させたいから人々が追悼をすることを認めないのだと思っています」。
Khem Sophath君が最後に目撃されたのは、事件当日3日、治安部隊が群衆に銃弾を浴びせた後、あたり一面が血まみれになるほどの出血をしている状態でベン・スレン通りに横たわっているところである。その後、彼の姿はなくなり、行方は不明である。少年の身体は、当局によって移動されたとの情報もあるが、真相は定かではない。
今回最終的な、追悼行事に参加しようとした者は少なくとも300名に及ぶとみられている(当日は、多くの工場労働者が出勤日であったため、労働者らが集まることはできなかったとみられている)。
治安部隊などによる式典参加への妨害の結果、3人の遺族が、被害者を慰霊することができなかったことは非常に残念である。
賃上げを求めるストライキに端を発し4名が射殺されるという悲惨な出来事から2年が経過した今日でも、平和的集会が弾圧され、最低賃金128米ドル(2015年水準)程度で労働者らは、日々懸命に縫製工場などで働いている。
この出来後のあった地区の工場群では、大手アパレルブランドがあり、日本の関係する工場もあるとみられている。私たちは、彼らが縫製した洋服を一着数千円から数万円で購入して着ていることもある。大手アパレル産業が抱えるビジネスと人権の問題は、現在上映中の「ザ・トゥルー・コスト」[6]でも紹介されているように、私たちの生活に関係している。
2年前の出来事、そして現在もなお続くカンボジアで続く過酷な環境での工場労働の問題、カンボジアから遠く離れた日本に住む私たちとも、一切関係ない問題とは言えないだろう。
今後、自由権規約で保障される平和的な集会に当局が介入しないことを願うとともに一刻も早い労働環境の改善を願い、ヒューマンライツ•ナウは2016年もカンボジアでの人権状況の改善を求める次第である。
[1] 事件当時に公表したHRNの声明(事件の詳細はこちらをご参照ください)
http://hrn.or.jp/activity/1989/
http://hrn.or.jp/activity/1997/
射殺された4名Kim Phaleap, (当時25), Sam Ravy, (当時25), Yean Rithy, (当時25) and Pheng Kosal, (当時22)
失踪中の1名 Kem Sophath(当時16)
[2] https://www.cambodiadaily.com/news/police-quash-veng-sreng-memorial-ceremony-104291/
[3] プノンペン市は、ベン・スレンに違法に集まる全ての者は、断固たる措置に直面すると警告した。
[4] Licadhoとは、1992年からカンボジアで活動する地元人権団体(NGO)である。(http://www.licadho-cambodia.org/aboutus.php)
労働組合Cambodian Food and Service Workers’ Federation (CFSWF)
(https://cfswf.wordpress.com/)
[5] この3つのグループの他、若干の僧侶たちもベン・スレン通りには来ていたようである。写真は犠牲となった方々の写真横に掲載してある。
[6] http://unitedpeople.jp/truecost/