10月6日、ヒューマンライツ・ナウ事務局長 伊藤和子がNHK「視点・論点」に出演して、
カンボジア特別法廷について10分間発言しました。
その際の発言を掲載させていただき、ご報告に代えさせていただきます。
こんにちは、国際人権NGO、ヒューマンライツ・ナウ事務局長の伊藤和子です。
今日は、今年7月26日に初めての判決が下されたカンボジア特別法廷についてお話したいと思います。
カンボジアでは、1975年から1979年まで、いわゆるポル・ポト派と言われるクメール・ルージュ政権の支配のもと、強制労働、虐殺、拷問などの人権侵害が行われ、100万人以上の人々が殺害された、と言われています。カンボジア特別法廷は、国連とカンボジア政府の合意に基づいて、こうした深刻な人権侵害を行ったポル・ポト政権の元幹部ら最も責任のある者を裁く目的で設置され、2006年に活動を開始した特別刑事法廷です。紛争や深刻な人権侵害を経験した社会が、再建の過程で、過去に発生した人権侵害の真相を究明し、その責任者を裁く活動は、過ちを二度と繰り返さない社会を構築していくために、とても重要です。
旧ユーゴやルワンダの内戦後の国際法廷、そして、2002年から始まった国際刑事裁判所は、いずれも過去の残虐な人権侵害を裁くために設置されて活動してきました。また、アパルトヘイト後の南アフリカや、軍事独裁政権が多くの人命を奪った経験を持つラテンアメリカ諸国は、国内に特別調査委員会を設置して、過去の人権侵害の真実を究明し、再発防止策を確認しています。
アジアでも、ネパール、スリランカ、アフガニスタンなど、内戦の過程で罪もないたくさんの人が虐殺される経験をした国が近年でも少なくありません。しかし、人権侵害の責任は何ら問われず、人権侵害や紛争の再発の火種は残されたままです。
その意味で、30年以上前の人権侵害の不処罰を克服しようとして開始されたカンボジアの特別法廷の取組みは今後のアジアの平和構築にとっても大きな影響を与えるものといえます。
当初、国際社会は、カンボジアにおける司法の独立の欠如などから、この法廷の実現に少なからず懐疑的でしたが、日本は、法廷設置費用の半額近くを負担するなど法廷の実現に大きく貢献し、人的にも日本の検察官が外国人上級審判事として任命されました。
平和構築に関わる人権分野に日本が貢献することはまだ珍しく、注目に値するといえるでしょう。
私たちヒューマンライツ・ナウは、この法廷が、被害者が願うような、公正で正義の実現される裁判に近づくように、現地カンボジアのNGOと協力しながら、政治的干渉や腐敗を監視して、是正を求めるなどの活動をしてきました。また、「被害者に正義を」と題する意見書を国際的に公表し、人権侵害の被害者たちが「当事者」としてこの法廷に参加すること、そして被害にみあった補償がなされることを求めてきました。その結果、カンボジア特別法廷では、人権侵害の被害者が当事者として直接法廷に参加する権利が実現し、裁判所には被害者に対する金銭以外の補償を命ずる権限が付与されました。
法廷は、この4年間、何度も腐敗や政治的干渉などの問題に直面しましたが、ようやく1件の審理を終え、今年7月26日、初めての判決を言い渡しました。残虐な拷問が行われたことで悪名高い「トゥールスレン収容所」の元所長のカン・ケ・イウ被告(67)が、1万2000名以上の命を奪った拷問・処刑などに責任があるとして、人道に対する罪などで有罪とされ、禁固35年の刑が言い渡さました。
法廷が様々な障害を乗り越えて、初の有罪判決に至ったことは、不処罰の歴史を克服し、被害者にとって正義を実現する第一歩といえるでしょう。
カンボジアで開催されたこの法廷に対する国内の関心は非常に高く、連日約300人、のべ約3万人が傍聴に訪れました。その中には若者も多く、この法廷は過去を若い世代に語り継ぐ場としての役割も果たしました。
法廷では、22人の被害者が、時に言葉を詰まらせながらも人権侵害の実情や苦しみを語りました。法廷と並行して、全国各地でたくさんの市民団体主催の公聴会が開催され、多くの被害者たちがそれぞれの地域で、自分の経験を語りました。これまで人権侵害の再発を恐れ、心の傷を負ったまま沈黙を守ってきた人々が被害を語り始めたことは、カンボジア社会の平和構築にとってきわめて重要な経験といえます。
何より判決が送った、「重大な人権侵害を行った権力者はいつか処罰される」というメッセージは、権力者から再び同じ人権侵害を受けるのを怖れて何も言えずに暮らしてきた人々に大きな意味を持つものといえるでしょう。
しかし、法廷をめぐる今後の課題も山積しています。
法廷はまだ一人の有罪判決を出したにすぎず、ポル・ポト派元最高幹部であるヌオン・チア、イエン・サリ、キュー・サムファン、イエン・チリトは身柄を拘束されたまま、公判がまだ開始されてもいません。
最も責任を負うとみられているこの4名の事件の真相を究明し、公正な判決が下さない限り、法廷はその使命を果たしたとはいえません。身柄拘束の長期化や幹部らの年齢を考慮すれば、4名の公判は一日も早くはじめられる必要があります。関係者の最大限の努力を求めたいと思います。
さらに、この4名以外の元幹部たちに対する捜査も始まっていますが、カンボジア政府は、これ以上の訴追の拡大に消極的な姿勢を示しています。しかし、政府が訴追の拡大に政治的圧力をかけるようなことは、司法の独立を脅かす政治介入であり、許されません。
一方、今回の判決は、被害者に対する補償措置の点でも大きな問題を残しました。
法廷が命じた補償措置は、被告が公判中に行った謝罪の言葉を、法廷のウェブサイトに掲載しただけです。裁判に参加した当事者はあまりにも期待とかけ離れたこの判決に失望しています。
今回の裁判では、金銭的な補償は、制度として認められていません。しかし、被害者たちは、ポルポト政権下の人権侵害の過ちを二度と繰り返さないためのあらゆる方策を尽くすこと、例えば、人権侵害の実態を記録する資料館や教育施設の設置、慰霊塔の建立、教科書への記述、さらに精神的トラウマへのケアなどを求めています。法廷には、こうした被害者たちの声を反映した、適切な補償措置を再考してほしいと思います。
他方、当初3年の予定で予算が組まれていたこの法廷の財源は、設置から4年がたった今、不足に陥っています。法廷が資金難のために打ち切られることがないよう、国際社会の継続的な支援も求められています。
日本を含む国際社会には、カンボジア法廷の運営や補償措置実現のための財政的な支援を行うこと、そして、法廷への政治的干渉や圧力、腐敗などに明確に反対し、公正な裁判が実現するよう役割を果たすことが求められます。
一方、現在のカンボジアの人権状況も憂慮すべきものです。この9月に入り、野党のリーダーが政治的表現を理由に懲役10年の判決を受け、人権団体のメンバーも同様の理由で懲役刑を宣告されるなど、言論の自由が政権の意向で弾圧され、司法が言論弾圧の一翼を担っている状況があります。カンボジア特別法廷に注目が集まる影で、国内の人権抑圧が進行しているのです。
日本を含む国際社会には、現在起こっている深刻な人権侵害にも機敏に対応し、歯止めをかける役割が求められています。
私たちもNGOの立場から、現地の人々と連携し、引き続きカンボジア法廷に被害者の声を反映させる活動を続けるとともに、現在の人権問題に声をあげていきたいと思います。