【メディア】震災後の福島から逃れて:二組の親子の物語(2012/3/11 ABC News)

ヒューマンライツ・ナウがニューヨークで開催したイベントが、ABCニュースで紹介されました。

≪震災後の福島から逃れて:二人の母親の物語≫
想像してみてください。
自分の家を、友人を、夫を、目に見えない、臭いもしない、
触れることもできないものの恐怖にさらすことを。
これは、津波が原発を襲った都市である福島から避難してきた
母親たちが、実際に経験していることです。
先週、そのなかの二人の母親から、ニューヨークのABCニュースにて、
これまでの経緯をお聞きすることができました。
彼女たちが幸運な人たちであったかどうかは、時が経てばわかるでしょう。
■福島からの避難
2011年3月11日、マグニチュード9.0の地震が日本の沿岸を襲いました。
その30分後、巨大な津波が東北地方太平洋沖を襲い、津波から逃れることの
できなかった約2万人の男性、女性、子ども達が亡くなりました。
津波警報は鳴っていましたが、誰もこれほど大きな津波を予想していなかったのです。
最初の地震から数分の間、多くの余震が日本全土を襲い、千葉県の石油工場からは
炎が上がりました。仙台空港は水没し、多くの人が自分の愛する人を探しました。
その後、福島第一原子力発電所の爆発事故のニュースが世界中をかけめぐり、
状況は悪くなるばかりでした。
富塚千秋さんは、福島第一原発から36マイル(約58キロメートル)離れた福島県内に
住んでいました。彼女は、チェルノブイリ原発事故の惨事を覚えていたため、
今回の事故において放出された放射性物質の量が、チェルノブイリよりも、
ずっと少ないとわかっていても、10歳の息子の健康のことが心配になりました。
彼女とその夫は、すぐさま福島から避難することを考えました。
しかし、それを実行することは簡単なことではなかったのです。
「事故の後の数日間、多くの友人が避難を始めました。でも、私たちは、
 逃げられませんでした。なぜなら、引き続き起こる余震により、電車が
 止まってしまい、車もガソリンが不足していたため使えなかったのです」
と、富塚さんは話しました。
ガソリンは、貴重なものとなりました。多くの人々が、ガソリンスタンドに燃料が
届くのを、何時間も列に並んで待ちました。運ばれてきたガソリンが売り切れて
しまったため、また後日並びなおす、という人達も多くいました。
富塚さんが息子の悠吏(ゆうし)君とともに、彼女の両親の住む神奈川県まで
移動するためのガソリンを確保することができたのは、3月23日、原発事故
発生の11日後でした。二人は横浜市の公営住宅に移り、仕事のため福島に
留まった夫とは分かれて暮らしています。
「お父さんに会えないのは、悲しいです。でも、避難したことは正しかったと
 思います。なぜなら、将来病気になるのは嫌だし、長生きしてお父さんと
 お母さんを安心させてあげたいからです」 (悠吏君)
公営住宅への入居は、来年までしか保障されていません。しかし、富塚さんは、
期限が切れた後にどのような事態になるか、考えたくないと言います。
「今はまだ考えることができません。今の現実を、辛うじて受け入れることが
 できている状態です。もし、期限後のことを考えてしまうと、
 さらに深い失望に足を踏み入れてしまう気がするのです」
富塚さんの唯一の後悔は、避難の前に、友人や近所の人々、息子の学校の
先生にお別れを言うことができなかったことです。避難という行動を
取りたくても取れない人々が大勢いました。彼女は、恐怖と罪悪感の混じり
合う感情を抱えながらも、避難という決断が正しかったと信じています。
■避難区域:本当に正しく設定されているか
かつて、たくさんの桜の木々と美しい風景を誇った福島も、放射能の汚染に
よる危険な地域となってしまいました。福島第一原子力発電所の事故により、
1945年に広島に落とされた原爆の約168倍の放射能(放射性物質)が放出
されました。そして、今回の事故は、国際原子力事象評価尺度(INES)による
影響の指標が、最高レベルの「レベル7」に設定されたのです。
日本政府は、福島第一原発の半径12マイル(約20キロメートル)を「立ち入り
禁止区域」と設定し、8万人にのぼる人々が避難を余儀なくされました。
この地域にある町は、時間が止まりゴーストタウンのようになってしまいました。
信号は誰もいない道路の上で灯り、洗濯物かごに入った服は、折りたたんだ
ままになっています。生活の気配が全て消えてしまったのです。
避難してきた人々は、故郷に何十年も帰れないかも知れません。
また、避難区域のすぐ外に住む住民も、政府が言う「この地域は安全です」という
言葉を信じられなくなってきています。「放射線量が下がってきていることは
知っているが、もう何が安全なのかわかりません」と言います。
そして彼らは、政府による補償や、福島原子力発電所を運営する東京電力からの
賠償なしには、避難することができないと主張します。
若い世代の家族は、自分たちの子どもが高レベルの放射線に曝されることを、
心配しています。しかし、住宅ローンや家の抵当などが、彼らを縛っているのです。
家を売ることもできず、新たな職が見つかる保証のないままでは、
新しい場所に引っ越すこともできません。
避難を余儀なくされた人々は、毎月金銭的賠償を東京電力から受けています。
しかし、避難区域のすぐ外に住んでいて、自主的に避難した人々には、
わずかな賠償しかありません。
東京電力は(避難区域外の人には)一回限りで、子どもと妊婦には一人当たり
40万円、その他の者に対しては8万円を支給する、としているのです。
■一年後

福島から避難した、富塚千秋さんとその息子、悠吏君、深川美子さんと
その息子、凱聖(かいせい)君は、先週の水曜日、国連女性の地位委員会
第56回会議(ニューヨーク)の際に、日本のNGO「ヒューマンライツ・ナウ」の主催で
行われたイベントにおいて、自らの健康への不安について講演を行いました。
原発が爆発したとき、深川さんは福島県郡山市に住んでいました。
富塚さんと同じように、彼女も4歳と7歳の息子を連れて自主的に避難しました。
彼女は、他の母親たちの助けを借りながら、草の根の団体「福島避難母子の会」
を設立しました。この団体は、若い母親が、自分の子どもの健康への不安を
話すことができる場所を提供しています。また、放射能の危険への注意を促し、
反原発を主張するための集会や座り込み抗議を行っています。
原発事故が起こる前の故郷を思い出すことのできるものは何かありますか、
と尋ねたところ、
「巨大な地震を経験したあと、すべてのものが津波で流されていくのを見ました。
 私の持っていた願いや希望の切れ端さえも流されてしまいました。
 今はただ、命があることに感謝しています」
と、深川さんは答えました。
富塚さん、深川さんとその息子たちのお話から、福島第一原子力発電所の事故は、
いまだに多くの人々の生活に影響を与えているということが実感させられました。
「福島原発事故から一年が経っても、何も終わってはいません。
 私たちの存在を忘れないでください」(富塚さん)
(仮訳:ヒューマンライツ・ナウ)